Purpose

本領域の目指すもの

生きているものと死んだもの、あるいは生命と非生命の本質的な違いは何でしょうか。石ころと猫を比べるのであればその差は歴然としています。それでは、ついさっきまで生きていた猫は死の前後でどのように違うのでしょうか。「生きている」ものが「死んだ」ものへと変わるその瞬間に何かが変化しているはずだという直感は古来よりあり、例えば「魂」はその「何か」のひとつであると言えます。もちろん、魂が存在すると考えるに足るような現代科学的な証拠はこれまでに見つかっていないため、魂以外にその「何か」を探すことになります。

死の直前と直後では、細胞の物質蘇生は同一だと考えられるため、その「何か」は具体的な物質ではないでしょう。構成要素以外に「何か」を見出すのであれば、要素同士の関係性や相互作用に着目することが現代科学の観点からは最も自然です。生命を構成するひとつひとつの要素はただの化学物質であり、構成要素を取り出してその性質を調べたところで「生命らしさ」というものは見出せません。「生命らしさ」は、部分の性質の単純な合計を超えた性質と考えられます。このような現象のことを現代科学では「創発」と呼びますが、生命現象は創発現象の最たるものであると考えられます。この創発的な性質が失われ、全体としての性質が顕現しなくなる、その転移を「生命」から「非生命」への転移というように捉え、その科学を構築することを目標として、本領域「細胞と人工細胞を包括する『生命-非生命転移』の統一的学理」(略称「生命-非生命転移」)が発足しました。

「死」の難しさ

「死」という単語は日常言語でもあるので、専門用語のような難しさを感じることは少ないでしょう。しかし「死」を科学的な研究の対象として取り扱おうとすると一筋縄ではいきません。例えば、「〇〇が死んだ」というフレーズは日常的に使われるものですが、厳密にどのような条件が満たされれば生物は「死んだ」ことになるのでしょうか。その生物が動いていなかったり、栄養を取り込んでいなかったりすれば死んでいるように思えるかも知れません。しかし実は、運動能力のない生物というものも存在しますし、「休眠状態」と呼ばれる状態になった微生物は栄養の取り込みを行わずに数年間生き延びることができます。

そこで本領域では、ある瞬間の生物個体の状態ではなく、未来の可能性に基づいて生死を定義するという作業仮説を立てています。例えば、植物の種は動かず、活発な栄養取り込みもしていません。これらの点で植物の種は「死んでいる」と判定されても良さそうですが、私たちは種を「生きているもの」として捉えています。その理由はおそらく、「土に植えて水を与えれば花を咲かせる」ということ、つまり「ある操作を行えば、『明らかに生きている』と思える状態(種の場合は花が咲いた状態)へと遷移できる」ことを知っているからでしょう。このことを抽象化して、「何らかの操作によって『明らかに生きていると思える状態』へと遷移させることができる状態」を「生きている状態」、「どのような操作を行ったところで『明らかに生きていると思える状態』へと戻れない状態」を「死んだ状態」と定義し、その数学的な理論を構築しています。

本領域のアプローチ

本領域では、微生物学・人工細胞研究・統計物理学・システム生物学など幅広い分野の研究者が協働して「生命-非生命転移」の学理構築を目指します。単細胞の微生物を用いた研究では、細胞を様々なストレスで殺し、死の過程で何が起きているのかを実験的に計測することで、「生命」から「非生命」への転移の性質を明らかにします。逆に、人工的に合成された「増殖する化学反応システム」である人工細胞を用いて、「非生命」から「生命」への転移の研究を行います。これまでに構築されている人工細胞は、実際の細胞のようにいつまでも分裂を続けることができず、どこかで分裂能を失ってしまいます。分裂能の喪失がどのようにして起こるのかを詳細に計測・解析することによって、どのような「非生命」から「生命」への転移を起こす難しさはどこにあるのか、あるいはどのようにすればその転移を起こし得るのかを明らかにします。

また、本領域では統計物理学・計算複雑性理論・力学系理論などを用いた理論研究も計画しています。熱力学・統計物理学において「相転移」は極めて重要な現象です。相転移をとても大雑把に説明すると、ひとつひとつは単純な要素が大量に集まり、ある条件を満たすことで高次の構造や秩序が出現する転移現象のことです。この高次構造・秩序の性質は個々の構成要素の性質に還元することができず、いわゆる創発的な性質です。個々は単純な性質を持つ化学物質が集まり、どのようにして生命へと転移するのか、またその転移は数理科学的にどのように記述することができるのか。これらの問いの解明を目指します。